やや長文です。



・・・・当たり前だけど不自然な話(主観)・・・・

恐らく。

日本の学校(小・中・高)で実施されていた、『国語』の授業と言うものは、世間一般では有名人であるらしい、誰かの小説や論文を音読したり、または、朗読したり、そして、その作品の細部に切り入り、”語”の表す真意を探ったりと。”それ自体”は何ら変わりの無い、人間として日本人として、つまりは日本人的人間として生きる為には、避けては通れない事だったということは、言うまでも無い。

”それ自体”に小言を並べるつもりは無い。
『言』や『事』の、本質や真相を学ぶ、或いは、知ろうと思うのは至極当然なものだ。

しかしながら、そこから先がどうも不自然と言うか、『国語』という名の本質にそぐっていなかったのではないかと、少なからず、感じた。

”それ自体”の後に行われる、”教師と呼ばれる『人』による思想のチェック”。
または、”教範を基にした思想のチェック”。

『世間一般』では無い。つまりは、日本人的人間として適確で無いと判断されれば、そこに明確な理由などは無い。単純に『間違い』だ、と、成す術もなく、一方的に烙印される。

だけれども、生物の真理として、『思想』や『思考』というものは100いれば100通り、、とまでは言えない(言う事ができない)が、妥当に考えると100いれば90通りのそれが存在する。90という数字に深い理由は無いが。。

90通りの『思想』は正しいとも、間違いとも決定できない。決定されるべくも無い。だけれども、それは、事前に用意された『解答』によって決定されてしまう。正に、成す術もなく。

『思想』のチェック。
しかしその行為も間違っているとは、決定できない(されるべくも無い)。
日本人的人間として、そして人間として、この『世界』で生きてゆく為には、それを行う方が、尺度というものを計り易いのは、全く事実だろう。更には、人間として踏み外してはならない『限界』が存在することも、当然のことながら、その過程の中で明らかにさせなければならないこと、これも事実だ。

だけれど、少なくとも、『国語』という名に『思想』という本質は、多分には含まれていない筈だ。

ここからは小言だが、『国語』と呼ばれる授業と言う枠組みに於いて、意思とは関係なく、知らない間に、『思想』というまた別の授業を受けている。
これが、『国語』と言う授業を不自然に感じさせた、最も大きな理由だ。

国語、数学、理科、社会、音楽、工作、体育・・・・、言い出すとキリが無いのだが・・・。これに『思想』は、はっきりと区別させるべきなのだと思う。
そこに『思想』が絡んでくると、碌(ロク)な事がない。

だからこそ、区別させた『思想』の行き場所として、90通りもの『思想』『思考』を交錯させる、独立した場が、どこかに、いかにも必要だ。

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