・・・・ちょっと大袈裟な話(創作)・・・・

信号機は、あれはどう見ても目玉に見えて仕方ない。

「アイツは何を考えているんだ?」昔っからあれを見るたびに、そう思っていた。
ホントに何を考えてるのか解らないような目をしているものもあれば、微妙に上目を細め、寂しそうな、悲しそうな、目をしている奴もある。

本当に下らない。

『物』とは何だろうか、『人』とはなんだろうか。
『人』も『物』も、同じものなのかもしれない。
むしろ、『物』の方が、大切なのかもしれない。
物言わぬ『物』が、ちょうど良い語り相手だ。

物言わぬ『物』に、自分を代弁させる。
何を言わせたい?
物言わぬ『物』に、自分を投影する。
何故何も言わない?

何かを訴えかけようとしている訳でもなく、ただ淡々と光を放つあの目からは感じられた、一種の安心感というものを、『人』の目から感じ取ることができない。

決定的に、何かが壊れている。

・・・・・・・・・・・・・・
・・・・ちょうどよくない話〜自問自答〜・・・・

”ちょうどよいもの”

その定義は紛れもなく、個々人の主観に委ねられる。

「違うとは思うけれど、そうと言い切れないし、言いきれる自信は当たり前の如く持ち合わせていないし・・・」
自分の場合はこんな状態だ。単純に言ってしまえば、
『よく解らない』とか、『中間地点』とか言える。

そんな曖昧模糊な感情を、いつまでも自分の頭の中に飼っておくのはとても困難だ。ましてや飼いならすなんて、そんな共存関係などまっぴら結びたくない。

世の中を二元論で判断することは簡単な様で、とても難しい。必ず、分類しようの無い、分類されるべくもない、その中間が存在してしまう。
だからこそ、何らかの『中間地点』を設定し、そこに論理帰結を置かざるを得ない。

中間に身を置くのは、安定を得る為には仕方の無いことなのかもしれない。しかし、それも度を過ぎると、それはそれで考え物だ。

進化もなければ退化も無い。
発展もなければ衰退も無い。

そういう状態と似ている。

・・・・・・・・・・・・・・
やや長文です。



・・・・当たり前だけど不自然な話(主観)・・・・

恐らく。

日本の学校(小・中・高)で実施されていた、『国語』の授業と言うものは、世間一般では有名人であるらしい、誰かの小説や論文を音読したり、または、朗読したり、そして、その作品の細部に切り入り、”語”の表す真意を探ったりと。”それ自体”は何ら変わりの無い、人間として日本人として、つまりは日本人的人間として生きる為には、避けては通れない事だったということは、言うまでも無い。

”それ自体”に小言を並べるつもりは無い。
『言』や『事』の、本質や真相を学ぶ、或いは、知ろうと思うのは至極当然なものだ。

しかしながら、そこから先がどうも不自然と言うか、『国語』という名の本質にそぐっていなかったのではないかと、少なからず、感じた。

”それ自体”の後に行われる、”教師と呼ばれる『人』による思想のチェック”。
または、”教範を基にした思想のチェック”。

『世間一般』では無い。つまりは、日本人的人間として適確で無いと判断されれば、そこに明確な理由などは無い。単純に『間違い』だ、と、成す術もなく、一方的に烙印される。

だけれども、生物の真理として、『思想』や『思考』というものは100いれば100通り、、とまでは言えない(言う事ができない)が、妥当に考えると100いれば90通りのそれが存在する。90という数字に深い理由は無いが。。

90通りの『思想』は正しいとも、間違いとも決定できない。決定されるべくも無い。だけれども、それは、事前に用意された『解答』によって決定されてしまう。正に、成す術もなく。

『思想』のチェック。
しかしその行為も間違っているとは、決定できない(されるべくも無い)。
日本人的人間として、そして人間として、この『世界』で生きてゆく為には、それを行う方が、尺度というものを計り易いのは、全く事実だろう。更には、人間として踏み外してはならない『限界』が存在することも、当然のことながら、その過程の中で明らかにさせなければならないこと、これも事実だ。

だけれど、少なくとも、『国語』という名に『思想』という本質は、多分には含まれていない筈だ。

ここからは小言だが、『国語』と呼ばれる授業と言う枠組みに於いて、意思とは関係なく、知らない間に、『思想』というまた別の授業を受けている。
これが、『国語』と言う授業を不自然に感じさせた、最も大きな理由だ。

国語、数学、理科、社会、音楽、工作、体育・・・・、言い出すとキリが無いのだが・・・。これに『思想』は、はっきりと区別させるべきなのだと思う。
そこに『思想』が絡んでくると、碌(ロク)な事がない。

だからこそ、区別させた『思想』の行き場所として、90通りもの『思想』『思考』を交錯させる、独立した場が、どこかに、いかにも必要だ。

・・・・・・・・・・・・・
何か重要ではない、些細な事を忘れているような気が、常にする。
重要で無いのならそれで良いじゃん。
とも言われそうですけど、どうも、『覚えておきたい事』を覚えておくことが得意じゃない。
それが『何だったか』を思い出すことができない。

完全、綺麗さっぱり忘れほうけているわけじゃないから、だから常にもやもやもやもやした気持ちが残る。

これがどう日常生活に影響を及ぼすのかと言うと、全く影響を及ぼさない。
まぁ、つまりは、全くと言って良いほど些細な事なんだろうけど、、だけれど、常に気になる事が存在するってのは、どうも、自己の精神状況を不安定にさせる要素としては大きすぎる。

そんな時は大概、余計な事に考えふけってしまう。

例えば、自分は生き急いでいるんじゃないか、、とか。

まぁ、余りにも自意識過剰な分析ではあります。。。

ただ、若い時間は湯水の如く無駄遣いしたと、はっきり自覚しているから、、やっぱり自意識過剰なまでに生き急いだ方がいいんかな?

と、些細な事を思い出せない腹いせに、ここまで考えふけってしまうということ自体、精神不安定状況にあるということを物語っているのだと思います。


(そして明日になったら『思い出せない』、かも・・・。)




自分にとっての『些細な事』の定義は、他の誰かからしてみれば、それは『大きな事』なのかもしれない。

でも、恐らく自分は、常識の範囲内で『些細な事』の定義をしています。

本当に、誰も気にしないほど『些細な事』です。
自分にとってはちょうど良い『些細な事』です。
そろそろ朝晩が”寒い”と感じられる季節になってきました。

通学時や学校帰りの時は、建物から出た時に思わず体の芯が縮むような、そんなあまり気持ちの良くない感覚に見舞われてしまいます。

どうも『寒さ』と同時に襲ってくる『孤独感』に苛まれて、死んでしまうんじゃないかと、たまーに不安になったりします。。


・・・・更に重い話・・・・

『生と死』

対極にある存在にして、それは常に隣り合わせに存在している。

”隣り合わせ”と言っても、それは人間が背と背を合わせて立っているような、もしかすると、顔と顔を向き合わせて立っているようなものなのかもしれない。

自分の、心と呼ばれる目に見えない場所には常に、『生』に向かって歩く自分がいて、そして『死』に向かって歩く自分がいる。

ちょっと前までは、顔と顔を向き合わせて立っていただけだったかもしれない。『生と死』が切り離せない、生きているのか死んでいるのか分からない、、立ち止まり、何をするでもなくただ呆然と立ち尽くす。。
呆然と立ち尽くしていた、というのは適当ではないかもしれない。恐らく『生』に向かう自分と『死』に向かう自分が、激しく対立していたのだろうか。(つまり適当ではない。)

しかし今では、そうじゃない。二人は恐らく背と背を向けているのだろう。

やっと、『生』と『死』が切り離され、独立した事象として流転している。
”生きている”から『死』という存在がある、のではなく、”生きた”から『死』が存在するんだ

全力で”生きた”生命にしか与えられない『死』という現象。

そう考えることによって、何とかして生きて見ようと思った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・


9/10(十分の九)創作、1/10(十分の一)事実。です。

まぁ、でもこれが自分の『生死』観です。多分。
この前、携帯を持ち忘れてしまったので公衆電話を使おうと思ったら、故障していた。。
車で30分ほど他の公衆電話を探し回ったのだけど、結局無かった。

使えない&使われない&どこにあるか分からない物にお金をつぎ込むほど馬鹿らしいことはない。
よく思うのだが、もうそろそろ公衆電話は完全廃止しても良いんじゃないんかな。

その代わりに、公衆電話のブースで携帯やPCの高速充電ができるようにしたり、ADSLや光ケーブルなどを使って、ネットのコネクトブースにすればいいと、常々思う。
『どこにあるか分からない』と言う問題は、携帯が進歩してGPSなどが標準搭載されるようになれば、ブースの場所を検索することは簡単にできるようになる。

先ずは、携帯やPCをどこでも高速のネットに繋げるような環境の構築が、ユビキタスネットワーク実現に向けて重要なことだと思う。


と、大学の専攻の都合上、こんなことを考える機会が増えてきてます。

今月中には研究室が決定するんですけど、まぁ、第一希望が実現する可能性は低いかもしれません・・・。
また一週間の隙間を作ってしまいました。
どうもこの一週間は書く気が起きんかったです。。
まぁ、大会も終わったので、ちょくちょく更新を心がけます。



・・・・・唐突にかたい話・・・・・

宇宙って何なんだろうか。

大体は、空の遥か彼方にある何も無い空間という意味で使われることが多いと思うし、実際自分もそういう意味で解釈し用いることが多い。

だけども、宇宙というのものは、いくらどんなに考えても納得するには至らない。実際に目で見て確認して納得、と言うわけにもいかない。
遠い未来になるのか、近い未来実現できるのかは分からないが、宇宙と言うもの全てを目で見ることが出来る時代はやってくるのだろうか。

手塚治氏は、漫画『火の鳥 未来編』で、宇宙のことを『生命体の一部』と表現している。数兆個もの細胞が集合して形を成しているのが『生命』であるのと同じように、数兆個もの星や銀河が集合しているのが『宇宙』であり、また、数兆個もの『宇宙』が集合し、更に大きな『宇宙』を形成している。

原子でさえも『宇宙』である。そして、人間や動物も、無数の『宇宙』の集合体だ。

そう考えてみると何やら面白い。
小難しい物理学の話を聞いてみるよりも、氏の宇宙観には直感的に共感することができる。

自分の宇宙観は、基本的には手塚氏の宇宙観を踏襲した形になっている。

原子をイメージすると分かりやすいと思う。『宇宙』は一種類だけではなく、多様な種類が存在していて、それぞれの『宇宙』は法則も性質も異なる。
そして、人間から見ると限りなく極大の世界である太陽系では、惑星は太陽を中心に公転しているように。限りなく極小の世界では原子の周りを電子が公転しているように、『宇宙』という単位は、何かを中心として公転している、と考えている。

更には、安定した軌道を持たず、絶えず流動し続ける『生物』という存在は、物質に存在する『自由電子』という束縛を受けない電子に例えることができるだろう。

その体系は、極限まで大きくなろうとも、その基本を崩さない。『宇宙』は無限に大きくなり、『何か』を形作っている。
氏はそれを『生命体』だと考えた。

この考えに大方共感するが、氏のように『宇宙』の集合による最大単位が『生命体』だとは思わない。
ことごとく無限に存在し続けるものだと思う。それこそ、果てしなく延々に。それは、極小の世界でも同じことで、そこでも無限の『宇宙』が存在し続ける。

実際のところは目で見て確認するしか方法は無いが、極小の世界を見て『宇宙観』を感じ取るというのは、流石手塚治氏だな、と改めて感心させられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
09月20日付 Wired Newsの報道「『レボリューション』のコントローラーを記者が体験(上)」へのコメント:

Nintendo
http://www.nintendo.co.jp/n10/tgs2005/index.html


どうもどうも・・・とんでもないコントローラーです。
ぶっちゃけ革新的過ぎて、
10年くらい未来を先取りしている。こりゃぁすげぇ!!
って感じだ。

逆に言うと、
このコントローラーを世に送り出すのは10年程早いんじゃないか!? 先取りしすぎて皆ついて来れないんじゃないか!?
とも感じます。

このコントローラーだとどんなゲームでも実現してしまいそう。

まぁ実現してもそのゲームが面白いかどうかが問題ですけど:D

任天堂だから、またマリオとかポケモンに偏ってしまわないかが不安。偏らなければそれなりに期待できる。

任天堂の影響は、良い意味でも悪い意味でも大きすぎます。

任天堂は当分自社ソフトの開発自粛して、名も無き企業の開発支援をする、くらいの方針を見せても良いんじゃないかと思ってみた。

最早立派な日本の文化となっていますから、巨大メーカー同士がガシガシとフルスパーリングをしてる、ってのはどうもどうもな訳で・・・・。

まぁゲームは面白ければそれでいいですけど:D
小泉首相が言ってた、
「自民党をぶっ壊します!」
ってのは、ホントの意味は

「自民党はぶっ壊れます!」

って意味だったのかなと思ってきた。

日本の改革を常に考えて政に取り組む政治家と、古い体質にしがみつき、派閥だの利権だのにとらわれ続ける、自分のことを中心に考える政治家との二極化だ。

自民党がぶっ壊れたのは、間違いなく小泉さんの信念(?)の力だ。

こうなったら、自民党に限らず政治家のしがらみを全てぶっ壊して欲しい。
日本における最高峰の芸術作品であると確信する。

奈良の東大寺・南大門の金剛力士像。


何故だろうな?

こんなにも素晴らしい彫像が多くあるにも関わらず、学校の美術の授業では、西洋美術品ばかりを暗記した記憶がある。もちろん西洋美術も素晴らしいものばかりだったが、ただ、
勿体無かったな。
もっと日本のことを知る機会が欲しかったかも知れない。

今の年齢になって(といってもハタチなのだが・・)やっと分かってきた気がする。

そう思うと少し、小学生時代に戻ってみたかったり。

でもやっぱり本当の勉強ってのはある程度大人になってからだな。
子供の時期は、極論勉強なんか必要ないと感じる。ただ、心の容量を大きくしてやる必要があるだけだ。


と、金剛力士像からそんなことを考えてみました:D

てな訳で東大寺のHPです↓
http://www.todaiji.or.jp/

お寺にもHP。な時代になっちゃいましたねしみじみちょっと複雑)
海に夕暮れ、山に緑。

街に灯り、道に靜。

美しいものは意外と近くにあった。
世の中お金じゃない。

世の中モノでもない。

生活を豊かにしようとして、いくらお金やモノをそろえても、結局それはいつかは朽ちるもの。

全てのものをしまっておけるだけの心を持つことが、人間にとって最も大切なことなんだと思う。

心の教育とよく言われているけど、それは心の容量を増やすための教育であるべき。

1秒先の将来

2005年1月25日 思い込み
来年度からもう大学3年だし、そろそろ将来のこと考えにゃならんような時期になってきたんかなー、とか思う。

あまり 将来! って思いつめて考えても、結局、現在のことがおろそかになってしまう。

将来っつってもやっぱり1秒1秒の積み重ねだから、1秒先に、自分を含めた自分に関わる人全てが幸せにしていられる様な将来を考えていけば、意外と間違った道には進まないんじゃないかなと思ってみたりした。
?

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索